1.旅立ち-1
「…………」
晴天。うだるような暑さが、教室を満たしている。
焦点の合わない瞳を黒板へ向ける生徒達の頬に、汗が伝う。クーラーが未だ設置されていないこの学校では、恒例となった光景だ。どんなに暑い日でも、汗を流して勉学に励めと、ずっと昔から言われているのだと、誰かが自慢げに語っていた。
淡々とした口調で、教科書を読み上げる教師。その顔にはもろに風が当たり、前髪をばさばさと吹き上げている。教師の特権、『扇風機』である。
(あーあの馬鹿教師……自分だけズリー……)
五十嵐匠は、机に頬杖をついた姿勢で、心中で社会科の教師にひたすら悪態をつく。
(こっちは汗まみれなのによー……)
隣の女子をチラリと横目で見ると、ハンドタオルで汗をぬぐっていた。頬は真っ赤だ。
(まったく……)
熱中症になってくれたらどうすると、溜め息をグッと飲み込み、匠は窓の外に視線をやった。熱せられた教室の空気は、嫌な感じで歪んでいる。表皮に直接、あるいはシャツ越しに身体にまとわり付き、不快なことこの上なかった。
(あー……世界が波打ってるよ……気温何度だよ……このヤロー……)
一度前に視線を戻すと、教師の髪が(扇風機の)風で揺れていた。クーラーのあるこのご時勢だが、この教室を一度でも体験すれば、扇風機如きでも羨ましく思えるものだ。再び窓の外を見る。
(窓まで閉め切りやがって……)
毒づいたその瞬間、匠の運命は決まった。
「わああぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
やけに可愛らしい声が、匠の耳をついた。
「ハァ!?」
思わず声をあげる。教師がピクリと反応したのにも気付かず、窓の外を凝視する。
(マ……マジかよ!?)
窓の外を落ちていく、謎の生物があったのだ。
ピンク色の球状の体。白い綿のような羽根が一対。頭には2本の触角が伸びていて、金色の輪がキラリと日光を反射して輝いている。体を一周してしまいそうなほど長い尾らしきモノの先端にも、綿が一玉、揺れていた。
何コレ!?
ピンクの謎の生命体が、大口を開けて叫んでいた。窓越しとは思えないほどハッキリと「わあ〜」という黄色い声が耳に届く。匠は思わず後退り、椅子がガタリと大きな音をたてた。
「マジかよ……ありえねー……、今のは」
「ゴホン」
わざとらしい咳払いに、ハッと我に返ると、眼鏡ごしの冷たい視線が匠をついていた。匠は恐れに、教師は怒りに、互いに肩を震わせる。
「五十嵐。では、本当の答えを言ってもらおうかな……?」
「あ……え、その……」
もう一度窓の外を見ると、未確認生物体は、影も形も消え失せていた。叫びながら、落下し続けたのだろう。そして、居なくなった。
「あ、あ……アハハハハ……」
「――ったく何だよあの馬鹿教師! ったく……」
さらに悪態をつきながら、匠は廊下を歩いていた。
『五十嵐君、授業が終わったら、職員室に来なさいね?』
授業終了のチャイムと同時に、しつこく念入りに命じてきた社会科の教師は、そのねちっこさが嘘のような軽やかな足取りで、職員室へと戻っていった。日本人らしい思考の彼は、社会の規則を基準に考える。微かでもその基準から外れた者がいると、その人物を“更生”させることが、自分の使命だと考えているらしいのだ。
「あんの社会オトコめ……いっつも、俺のコト馬鹿にしやがってっ。つーか何故に社会が四校時にあるんじゃこのヤロそのことがまずありえないんだよなーそして社会科つーもんはどーしてこんなにつまらないんだよこんチクショー!」
傍らの壁を叩きたい衝動を、匠は辛うじて抑える。それでも握り拳に力が入る。ギリギリと指が軋んだ。
(公共物壊したら、弁償になるのかなーソレはイヤだ)
顔を上げると。職員室前に来ていた。ヘェ、と奇妙な溜め息をつき、匠は職員室に入った。しつれーしまーす、という気だるげな挨拶の瞬間、彼の頭によぎったことがあった。
あー、腹減った。
「授業中によそ見をするなんて……」
「……ハイ……」
「いいかね? 君はまだ2年生だ。しかし3年生になってみろ。将来を決める一歩、受験だ」
「ハイ……」
「そのときになって勉強したって頭には入らないぞ。今から真剣に授業を受けないと……」
「はい、分かってます。反省してます」
「ならば、何故窓の外なんかを見ていたのかい?」
「だから、何回も言っているでしょう。窓の外に変な生き物が……」
「そんな嘘は通用しないぞ!」
「いや、本当です!」
「受験ではな? ……」
匠が解放されたのは、昼休み終了のチャイムが鳴ってからだった。
「が〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜腹減った」
ぎゅるぎゅると鳴る腹を押さえ、廊下を歩く匠。成長盛り食べ盛りの年頃である。一食でも、抜かれると匠にとっては厳しいのだ。空腹感からくる苛立ちに、もう自棄になってきていた。
「まったく……あンの馬鹿教師め……」
チッチッチッチッチッ。
――ドガン!
短いカウントダウンが終わり、とうとう匠の堪忍袋の尾が切れた。あ―――――と意味もなく叫び、足音も高く教室へ向かう。
「よ――し……」
その頬には、何かを企んだような笑みが浮かんでいた。
静まりかえった廊下を歩く人影。お忍びバージョンの匠である。バージョンとはいえ、通常と違うのは心持ちであり、
(誰も出てくんなよ……これは俺の一生を賭けたバクチなんだからな……)
これはバクチなどではありません。
ズルズルのズボンをまくり上げまくり上げ、目的地である教室を目指す。
腰をかがめて、教室後ろのドアをそろそろと開ける。中を覗き込み、教師が未だ来ていないことを確認する。
(オッケー……未だ来てない)
室内に体を滑り込ませ、目指すは我が席。
(もうちょっと……もうちょい……センコー、来るなよっ!?)
神に祈りを捧げながら(匠「捧げてなんかねエッ!!」)、やっとこさ机に辿り着く。細心の注意をはらい、鞄に手をかけ……
――ガラッ。
ビックゥと、匠の体が跳ね上がる。
(ヤッベェ来た!)
ガッタンタンタ――ン!
という滅茶苦茶な音をたて、匠の机が倒れた。
何ごとかと振り返るクラスメイトを余所に、匠は引っ掴んだ通学鞄と共に教室を飛び出した。
「あっ、こら、チビ…じゃない、五十嵐!!」
無視だ無視! 徹底的に無視だっ!
「い〜〜がらしぃぃぃィィイッッッ……!!」
教師の悲痛な叫びを背中に、
五十嵐匠は、2年C組を去った。
そして、
この教室で再び会うこともなかった。
永遠に、帰ってはこなかった。
「うはー! 成功成功! やるじゃん、俺!」
ヒューヒュー、と口笛でも吹きそうな勢いで、廊下を弾む匠。満足そうな笑顔。足取りも軽々しい。スキップでも始めそうな雰囲気だ。
「ハッハッハァ、あンの国語教師……おチビの五十嵐クンは、こ〜んなに賢いんですよぉ? ……プププッ」
笑いがこらえられないようだ、この小賢しい坊主は。自分で言って自分で吹き出している。周囲に人がいれば、「バカじゃねえの?」とかあきれられているに違いない。
忍び笑いを漏らしながら、匠は階段へ向かう。コンプレックスでもある短い足を精一杯伸ばして、突き当たりまで駆け登り、扉を開けると、そこは別世界。
「ふへえ〜、なんとも言えぬ開放感! イィねェ〜」
匠の頬を、生暖かい風が撫でた。
屋上。誰にも邪魔されずに、一人きりの時間を楽しめる場所。匠はよく授業をサボり、此処で寝て過ごす。
「さあ〜って、寝るかあ!」
遠慮なく寝転ぶ。と言っても、此処には匠以外いないので、遠慮する相手などいないのだが。
匠は、真っ青な空と流れる雲を見ていた。何か胸が騒いで、寝る気分になれなかった。
(何なんだ、いったい……)
ぼー、としながら、思う。
(まあいいや。兎に角寝よ寝よ)
吹っ切るように瞳を閉じるが、その直後再び眼を開く。どうにも落ち付かなかった。
「なんだってんだ、一体――」
匠は立ち上がり、屋上のふちまで行った。校庭を見下ろすと、眼下には体育授業中のクラスが、和気藹々とゲームをしている。
「暢気だよなあ……」
はあ、と何処か重たい息を吐く。
どうせ俺なんかいてもいなくても、この世界は変わらず動き続ける。騒いでるのは最初だけで、両親だって俺がいたことを忘れようとするだろう。今だって大切にされていないようなのに、消えてしまえば、俺というモノを訴える奴がいなくなれば、何時かは想いも途切れるんだろうなあ……。それなら、
――死んでしまっても、いいのではないだろうか。
言葉に変えがたい衝動が、匠を突き動かしていた。フェンスを乗り越え、眼下の世界を見下ろす。心底腐った人間という生き物。自分も其れだ。
「さよなら……」
低く呟いた匠は、
中に身を投げた。
静かに目を閉じ、
穏やかな表情で。
五十嵐匠は、門をくぐった。