1.旅立ち-5
菊池瀬奈は、普通の中学生ではなかった。
しかもそれを本人が自覚していないというのだから、困ったものである。彼女をいじめようとする人たちも、彼女の性格ではまったく効果がなく、困りはてているほどだ。
いつもボーッとしていて、視線は宙を
彼女の性格を一言で表すならば、『天然』という
その朝も彼女は学校指定のブレザーで登校した。
瀬奈の学校生活はいじめで始まる。しかし、彼女が彼女自身を自覚していないのと同様、彼女へのいじめでさえも自覚していなかった。
まず靴箱を覗くと、自分の上履きがない。あれ、ときょろきょろ辺りを見回し、目当ての物が靴箱の上にあることに気付く。もちろん其れは“靴隠し”といういじめなのだが、瀬奈はそうは思わない。
(落ちていたのを、誰かが拾ってくれたんだ)
自分に対する、現在進行形のいじめに全く気が付かないというのも、馬鹿な話である。
(あれ?)
瀬奈は首を傾げた。
(なんか、今日はいつもと違う……)
決していじめに気付いたわけではない。
イ……ン……
(今、何か音が)
瀬奈は廊下で立ち止まり、耳を澄ませた。
リィ…ン……
(うわあ、綺麗な鈴の音)
不思議な音に聞きほれていると、
――ドン。
「うわっ、危ねえっ」
現れた少年と正面激突。
「気を付けろ!」
「あっ、ごめんなさい!」
反射的になのか、素直に謝る瀬奈。
相手も毒気を抜かれたようだった。一瞬、呆然としていた。
少年が走り去った後、瀬奈はもう一度耳を澄ませてみたが、あの鈴の音は聞こえなかった。
その後は普段通りに進み、5時間目、体育の時間。恰幅の良い体育教師と話をしていた瀬奈は、体育館から出るのが遅れてしまった。
瀬奈の学校では、上履きと体育館履きは別なので、履きかえなくてはいけない。マイペースな瀬奈は、のんびりと体育館履きを脱ぎ、上履きを靴箱から取り出し――
「あれ?」
上履きの上に、紙が置いてあるのに気付いた。何だろう、と疑問に思いながら、瀬奈は紙を開いた。
うわばきの中 注意して
と、それだけ書いてあった。瀬奈は忠告通り上履きの中に手を突っ込み、
「痛っ」
手を引っ込めた。もう一度注意深く手を入れ、中の物を取り出した。
画鋲だった。
天然の彼女も、今度ばかりは驚いた。が、
(何故こんな物が……!!)
などということは念頭なく、
(どうしよう、先生のところに持っていくべきかな……?)
ということを考えていた。手紙を置いてくれた、恩人さえ詮索しない。
結局瀬奈が出した答えは、画鋲を教師へ届けるということだった。
瀬奈は日誌係だった。
日誌係は毎日残って日誌を書き、担任に提出しなければいけない係であるので、皆からは敬遠されている。もちろん、瀬奈が自主的に立候補したわけではなく、ほぼ強制的にさせられた、いわゆる『余り物』。
その為、いつも最後まで教室に残っているのは瀬奈であり、毎日のように「頑張れよ、日誌係!」「瀬奈ちゃん、頑張ってね〜」「じゃあ、明日ね! といっても、センコーにOKもらえないとだけどねー」と軽蔑されるのも瀬奈であった。
今日も瀬奈は最後まで日誌を書いていた。いたのだが……
(あれ? どうして今日は皆、私に声をかけていかないのかな?)
もちろん、毎日かけられていた声に軽蔑の意味が込められていることに、彼女は気付いていない。
我れ先にとかけられるはずのその声が今日はなく、誰もがそそくさと教室から出ていく。
それが、瀬奈の異能力の効果であることにも、彼女は気付いていない。
まあ、兎に角、日誌を書き終えてしまおうとノートに向かった瀬奈の耳に、
(! これは……!)
――…ィ……ン……
届いた、
忘れかけていたあの鈴の音。
今度こそ、と瀬奈は朝のように耳を澄ます。
(鳴って……鳴って……!)
リィ……ン……
願いを聞き届けたかのように、其れは鳴った。
瀬奈はシャーペンを置き、日誌を閉じた。
あの鈴の音に、意識を集中させる為。
リィ――ン――……
もう一度鳴った其の時、
「きゃあっ!」
激しい風が吹き、瀬奈は悲鳴をあげた。飛ばないよう日誌を押さえるのも忘れない。視線をあげて、
「……何……此れ……」
呟いた。
其処にあったのは、黒い渦。人一人くらいはかるく飲み込めそうな程、巨大な。強風が吹き荒れる教室は、渦の出現によって、別世界になったかのようだった。
「……うわあ、ブラックホールだあ」
――本当ならば此の場面はシリアスになるハズなのだが、瀬奈はならない。しかも思いっきりはずれたことを口にし、誰かが共にいれば「ブラックホールは宇宙だろ!」とでもつっこまれそうだ。
「本当にあったんだあ……」
風に吹かれる瀬奈は、そしてハッとした。
(此処って……私、此処に元々いたっけ?)
其の違和感は、だんだん確実になっていく。
(私……何故こんなところにいるの? 私の……居場所は……)
巨大な黒渦に目を向ける。
(あの、渦の向こう……)
日誌を押さえていた右手が、ふっと浮いた。日誌は風にあおられ、バタバタと音をたてた。瀬奈は気付かない。
(私の仲間は……あそこに居る!)
――瀬奈――瀬奈――
名を呼ばれた瀬奈の足は、渦へと向かう。
その瞳には、理性の輝きはもはや見られない。
――キルク――キルク――
不思議な響きが、彼女を支配していた。
本能のままに、彼女は足を動かす。
――キルク。
私の本当の名は、キルク。
「ルゥーカスへ……」
言葉を放った瞬間、彼女は渦に自ら飛び込んだ。
意識が遠のく。
彼女は現世から、消え、去った。
その場に残されたのは、書きかけの日誌。
それさえも、何も語らなかった。